星場山   法 雲 寺 かいせつ 
HOME  法雲寺とは  年間行事  写真グラフ   サテライト  サイトマップ
水行式  経文を唱えつつ水を浴びる修行法。古来各宗教とも水に霊力があって心身の垢穢を払うと信じられて来ており、仏教でも六根清浄 の方法として水行は古くから行なわれて来た。滝に打たれ河海に入ることも水行であるが、日蓮宗では水行桶で水槽より水を汲んで藻浴する独特の方法がある。「水行肝文」は水行をする時に誦する経文で、水行の目的と願旨を法華経中より撰出した要文である。日像上人以来多くの先師の伝統が今に継承し、水行は日蓮宗独特のものである。戻る
  厄払い  人の一生のうち、災難に遭う恐れが多いので慎まなければならないとする歳を厄年という      戻る
tateyamasinkou1 立山信仰 山神や山中地獄への信仰を基盤とし、姥尊(うばそん)など多様な民間信仰の要素を持つ.江戸時代には芦峅寺の姥堂を中心に行われた布橋灌頂会や、「血の池」に経を納める血盆(けちぼん)経納経儀礼が「女人救済の儀礼」として広まった。北日本新聞より 戻る
 <立山信仰と立山曼荼羅の解説>富山県[立山博物館]係長・学芸員・福江 充氏
星まつり

密教の占星術では、北斗七星の七つの星の内の一つをその人の生まれ星として本命星と定め、運命を司る星と考える。また、一年ごとに巡ってくる運命を左右する星を「当年属星」と呼んでいる。これらの星を供養し、個人の一年間の幸福を祈り、災いを除く祭りで一般に旧暦の年の初め(立春)に行われることが多い。全国の様々な寺院で星まつり・星供の行事が行われている。Wikipedia参照 戻る

涅槃団子 涅槃団子に様々な色着けをするのは、お釈迦さまの舎利(お骨)が五色に輝いたという伝説に基づいています。仏教では世界の構成は地・水・火・風・空の五要素です。要素を表す赤・白・黄・青・黒(紫)。この団子を持つと火難、水難、盗難、病難、怨賊難などの災難魔除けになると伝えられている。又、近年では、この団子を毛糸で編んだ交通安全等のお守りとして配るケースもあります。団子の形も色々です。戻る
坂本虫堂
 明治から大正にかけての頃、特に坂本一帯に沢山の害虫が発生し水田に大きな被害があった。坂本虫堂は、そのときに害虫を退治した記念の塔であり、太平洋戦争勃発までは毎年七月六日(虫盆)に村民が集まり、害虫が発生しないように御供養した。時代は移り近代農業は化成肥料、農薬の普及進化により害虫被害は劇的に減少し、虫堂に豊作祈願を奉納する行事は遠い昔の物語として風化した。星場山法雲寺では、先人のご苦労に思いを馳せ、御題目の祈祷札を勧請し豊作祈願の行事復興を検討されている。戻る
日甄上人   善真院日甄上人は、東京府下本所区大平町本佛寺の住職であったが生家の甥である成瀬八平を始め成瀬一族の懇請により郷里坂本村に一寺建立の決意を持って金銭を俵に詰め込み馬で帰村された。運搬した金銭は開山建立費用の他、生活に困窮する坂本部落民に配られたとする伝承があり法雲寺中興の祖として崇拝されている。又、本佛寺在職中の明治二年に、深信堅固の優婆塞一夜 霊夢に感じ土中より発掘の霊像女体を開運子授鬼子母神と号し、日甄上人本佛寺退隠の際、奉載され明治三十七年に吉野瑞雲鬼子母神講を組織され信仰者の増殖に努められた。戻る
  本佛寺  山号:安楽山・寺号:本佛寺・現住所:東京都杉並区梅里1-1-12
明治時代の住所は東京府下本所区大平町とある。墨田区役所の資料によると、当時の太平町には開山日住上人、開基大田道灌の平河山法恩寺門前町であり参道の両脇には法恩寺の塔頭二十、末寺十一が集まっていたが、無差別の東京大空襲で焼失した。法恩寺や数件の寺は復興したが、本佛寺は杉並区に移転した模様。 
       
上の写真は、左から慈明院日張上人(石川教張)、本佛寺正門、本堂、庫裏
 安楽山本佛寺第二十二世 慈明院日張上人(石川教張先生)平成14年4月24日御遷化。世寿62歳。石川教張上人は、昭和四十二年に現代宗教研究所の研究員となって以来、平成七年五月に研究所の所長を辞任されるまで二十八年もの永い間勤務された。所長を辞められたあとも現宗研顧問として関わりをもたれた。大学院を終えてから今日まで、いわば、現宗研と共に歩んで来られたような上人である還暦を過ぎたばかりで、まだこれからいくらでも重要な立場で活躍していただきたい人であった。研究、著作、講演と活動は幅広くされていて著書も多く、宗門にとってなくてはならない存在でもあった。日蓮宗東京西教強センター追悼「石川教張先生」 より
 戻る HOME
           
石川教張著書の一部・紀伊国屋書店BOOKWED より  戻る HOME
吉川日鑑 1828‐1886 江戸後期-明治時代の僧。
文政10年11月17日生まれ。加賀(石川県)立像寺の充洽(じゅうごう)園で日輝に師事。明治9年山梨県身延山久遠寺住職となり,火災で焼失した殿堂の復旧につくす。日蓮宗第74世管長就任。明治19年1月13日死去。60歳。土佐(高知県)出身。字(あざな)は誠研。号は清舎,自厚院。戻る
 花祭り ・「花まつり」は第二次大戦後に広まった名前で、本来は灌仏会、仏生会、浴仏会、降誕会、竜華会などと言います。いろいろな花で飾った小さなお堂(花御堂)の中に、甘茶の入った水盤を置き、あかちゃんの姿のお釈迦様の像(誕生仏)を祀ります。ときにはこの花御堂を白い象にのせて練り歩きく場合もあります。
・お参りの仕方は、誕生仏の頭からひしゃくで甘茶をそそいでお参りします。お釈迦さまは生まれると、すぐに七歩ほど歩み、右手で天を、左手で地を指さして「人は誰でもこの世に一人だけであって予備の人間はいない。命は貴いものである。私は苦しむ人々を救うことを第一としよう」といいました。すると天に住む竜が感激して甘露の雨を降らしたといいます。
・花御堂はルンビニー園を、甘茶は龍が降らした甘露の雨を表わします。花まつりは、インドや中国でも古くから行われている行事です。日本では推古天皇の時代(606)に元興寺で初めて行われました。お釈迦さまの誕生を祝い、お釈迦さまの智慧と慈悲の教えを信じてゆくことを誓う日です。また、子供がすくすくと育つことを祈る日でもあります。
戻る 
 大荒行

・日蓮宗の荒行は毎年11月1日より翌年の2月10日まで行われる。全国から大勢の僧侶が集まり、冬季間の壱百日間に及ぶ修行である。荒行僧の1日は早朝2時に起床し朝3時、1番の水行から午後11時の1日7回、寒水に身を清める「水行」と「万巻の読経」「木釼相承」相伝書の「書写行」があり、朝夕2回、梅干1個の白粥の食事の生活が続く。
・自行の35日が明けると家族、檀信徒との面会が許される。朝夕の木釼相承は寒風の中で行われ、手や足のひびやあかぎれが裂け、血が吹き出してくる。こうして続けられる苦修練行は、まさに「死と蘇生」の宗教的体験が秘められている。
・2月10日の成満の日は、入行時に閉ざされた瑞門が、百日ぶりに開かれ、全国から集まった出迎えの檀信徒が早朝より修行僧の出行を待受ける。続いて祖師堂で「大荒行成満会」が行われ、再び檀信徒のもとで修行の成果が実践される

当山住職は平成二十四年十一月一日、中山法華経寺大荒行堂に再行入行された。戻る

 日蓮宗大荒行堂  毎年11月1日に入行式が行なわれる    一日7回の水行  瑞門
立正安国論 文永元年(1260)7月16日、日蓮上人は「立正安国論」を時の前執権・北条時頼に呈上した。当時、鎌倉は各地で大地震、暴風雨、流行病、火災、干ばつなどが続き人心は不安になっていた。日蓮上人が「立正安国論」を著したのは、正にこういう時期であった。この「立正安国論」を御家人の宿屋光則(光則寺は光則の屋敷跡)を通じて時頼に呈上したのである。

「立正安国論」は全長1598cmあり、その内容は当時流行した天変地変飢餓疫病の原因は、国をあげて禅・念仏等の邪教に帰依しているからだと断じ、多数の経釈を引用して本論を明らかにすると共に、この災難を根治する救国救民の正法は法華経以外には無い、もし速やかに法華経に帰依しなければ、必ず自界叛逆・他国侵逼の大難も続発するであろうと警告している。

「立正安国論」は大町にある安国論寺で著作されたと言われている。この「立正安国論」が鎌倉幕府に呈上されたが、以来日蓮上人は幕府から数々の迫害を受けた。
戻る                       
 
お盆

お盆は盂蘭盆会(うらぼんえ)ともいい、梵語の「ウランバナ」を音写したものです。ある日、釈迦の弟子の一人でモツガラーナが、亡くなった母が地獄の世界で苦しんでいるのを神通力で知り、その母をどうやって救えるかを釈迦に尋ねたところ、「お前の母は一人の力では救うことはできない。幸い7月15日に多数の僧侶が夏の修行を終えて集まるから、その力を借りて三世の諸仏や過去七世の父母を供養すれば救われるだろう」と説かれました。モツガラーナがその教えに従ったところ、母が救われたという伝承があり、日本では、推古天皇十四年(606)に「この年より寺毎に、四月八日・七月十五日に斎を設けた」と日本書記に書かれており、これが始まりとされている。以降、平安、鎌倉、室町、江戸と時代を経ても、宮中及び将軍家における仏教行事として継承されました。近代仏教では、お盆に、ご仏壇とご先祖のお墓にお花・お供え物を準備し家族揃ってお参りする習慣が定着しました。戻る HOME
鬼子母神

夜叉毘沙門天(クベーラ)の部下の武将般闍迦(パンチーカ、散支夜叉、半支迦薬叉王])の妻で、500人(一説には千人または1万人)の子の母でありながら、常に他人の子を捕えて食べてしまうため、釈迦は彼女が最も愛していた末子・愛奴児(ピンガーラ、プリンヤンカラ 嬪伽羅、氷羯羅天、畢哩孕迦)を隠して子を失う母親の苦しみを悟らせ、仏教に帰依させた。以後、仏法の護法善神となり、子供と安産の守り神となった。盗難除けの守護とも言われる。

インドでは、とりわけ子授け、安産、子育ての神として祀られ、日本でも密教の盛行に伴い、小児の息災や福徳を求めて、鬼子母神を本尊とする訶梨帝母法が修せられたり、上層貴族の間では、安産を願って訶梨帝母像を祀り、訶梨帝母法を修している。また、法華経では十羅刹女(じゅうらせつにょ)とともに鬼子母神が、法華信奉者の擁護と法華信仰弘通を妨げる者の処罰を誓っていることから、日蓮はこれに基づき文字で表現した法華曼荼羅に鬼子母神の号を連ね、鬼子母神と十羅刹女に母子の関係を設定している。このことが、法華曼荼羅の諸尊の彫刻化や絵像化が進むなかで、法華信奉者の守護神としての鬼子母神の単独表現の元となった。

その像は天女のような姿をし、子供を1人(末子の愛好とされる)抱き、右手には吉祥果(ザクロ)を持つ。吉祥果は人肉の味がするから、とも言われるが、これは後になって付け加えられた話である。

日蓮宗の子安鬼子母神
日蓮宗系では、鬼子母神説話に基づく子を抱いた訶梨帝母像を、子安観音像に似た子安鬼子母神として祀ります。
園城寺(三井寺)は天台寺門宗の本山で写真は「訶梨帝母座像」
戻る
   
 法雲寺日甄上人持参  法雲寺岩村上人持参  兵庫県常照寺  大津市三井寺  八千代市長妙寺