日蓮宗の宗紋  星場山  法 雲 寺        
 
   
星場山 法雲寺

サテライト
宗教的行事に限定せずに、ローカルニュース・催事案内・エッセー・俳句・味自慢レシピ・et ctera を御紹介するコミュニケーション広場です。法雲寺へ原稿郵送、又はブログへ書込みの何れでも大歓迎です。   住職 岩村皐義
              
お墓の清掃・洗浄を承ります・・・富山県シルバ人材ーセンター連合会 H22.6.29  
遠方や多忙・高齢などによりお墓掃除が出来ない場合は皆さんに変わってシルバー会員が心を込めて墓石の清掃・洗浄を承ります。先ずお気軽にお電話下さい。

[墓石の清掃・洗浄料金]4,000円〜7,000円(会員2人で作業します)
[家の中の仕事も承ります]草刈・除草・散水・洗車・樹木消毒年・選定・造園・雪吊り・雪囲い・掃除宛名書き・筆耕・チラシ配布・障子張替え・襖張替え・網戸張替・片付け・洗濯・買物・・塗装・病院付き添い・話し相手 etc

※各シルバー人材センターによって、作業内容・手順、料金などが違いますので、各シルバー人材センタ
ターにお問合せ下さい。
南砺市シルバー人材センター (0763)22-8050
高岡市シルバー人材センター  (0766)20-1650
富山市シルバー人材センター (076)444-5535 魚津市シルバー人材センター (0765)22-5326
射水市シルバー人材センター (0766)55-8817  滑川市シルバー人材センター (076)475-7585
氷見市シルバー人材センター (0766)74-8408 砺波市シルバー人材センター (0763)33-4341
黒部市シルバー人材センター (0765)52-4777  上市町シルバー人材センター (076)472-4567
小矢部市シルバー人材センター (0766)67-4804 入善町シルバー人材センター (0765)74-2207
立山町市シルバー人材センター (076)468-4854 舟橋村シルバー人材センター (076)464-1126
朝日町シルバー人材センター  (0765)83-2382      
富山新聞ニュースH20.12.3
◎心温か、冬の行脚 日蓮宗県青年会 歳末助け合いで南砺・福光地域回る

日蓮宗富山県青年会の歳末助け合い行脚は二日、南砺市福光地域で行われ、同市坂本の法雲寺を出発した竹内瑞隆会長ら七人が団扇(うちわ)太鼓の音色を響かせた。
青年会の行脚は毎年、歳末助け合いの募金を目的に県内各地で行われており、今回は法雲寺の岩村皐義住職が十月に入寺した記念も兼ねて福光地域が選ばれた。天台笠をかぶった一行は「南無妙法蓮華経」の玄題(げんだい)旗を掲げて題目を唱え、団扇太鼓を打ち鳴らしながら市街地を練り歩いた。
立山信仰、徳川家の姫通じ布教 H22.5.3 北日本新聞より
 江戸時代後期に「立山信仰」が徳川将軍家の姫たちによって嫁ぎ先の大名家に広められていたことが、立山町芦峅寺に残る古文書を調査している立山博物館の福江充学芸員の研究で分かった。江戸城大奥では立山信仰が広く受け入れられており、将軍家の姫が大奥から大勢の女中を嫁ぎ先に連れて行ったため、信仰がそのまま持ち込まれたとみられる。福江学芸員は「芦峅寺で宿坊を営みながら信仰を広めた衆徒も、将軍家と大名家の親せき関係に着目し、積極的に布教したのだろう」と話している。

 芦峅寺の衆徒は宿坊を営む一方、江戸や大坂などの得意先を回り、布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)への寄進を募るなどして布教していた。福江学芸員は平成18年に旧宿坊家「宝泉(ほうせん)坊」の土蔵で見つかった2千点を超える史料を調査。江戸での布教活動を記録した古文書などから、
13代将軍家定(いえさだ)夫人の天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)や14代将軍家茂(いえもち)夫人の皇女和宮(かずのみや)ら江戸城大奥の人々の間に、立山信仰が広まっていたことが分かっ
てきた。サイトリンク<立山信仰と立山曼荼羅の解説>富山県[立山博物館]係長・学芸員・
福江 充氏
 となみの歴史ウオーク(6)殿様街道/石畳に往時の面影 北日本新聞2010年5月5日掲載
南砺市福光地域に「殿様街道」と呼ばれる道が残る。安政3(1856)年に、加賀藩12代藩主の前田斉泰(なりやす)が通ったとされる。殿様街道は同市坂本(福光)から金沢市に至る古道。加賀藩政時代は、五箇山や福光、城端から米や織物、生糸、和紙などを金沢に運ぶ幹線道路だった。現在では当時の道はほとんど残っておらず、福光地域の坂本から百万石展望道路につながる約3キロ区間が、往時の姿をとどめる数少ない場所となっている。近くの住民の案内で百万石展望道路側から殿様街道に入ると、木々の緑が迎えてくれた。当時敷かれた石畳が所々に残る。約10分ほど進むと展望が開け、福光地域の町並みや遠くの山々が目の前に広がった「殿様もここで休憩したそうです」。住民が教えてくれた 。坂本側は法雲寺横の墓地から殿様街道に入れる。百万石展望道路に出た後は、温泉施設「ぬく森の郷」で風呂に入ってくつろぐのもいい。 加賀の殿様が休んだとされる場所からは雄大な景色が眺められる
干し柿物語
準備中 
霊峰医王山
医王山は富山県と石川県の県境にある山です。低山ですが植物の種類が多く  四季を通じて登山が出来冬にはカンジキ登山の登山者が多く訪れます。富山県側でヨーロピアンリゾートIOXアローザー、石川県側では鳶岩の断崖、三蛇ヶ滝や大沼、カニの横這い等変化に富んだ山登りが楽しめる為、夏山に備えてのトレーニングに訪れる登山者も多い山です。最高峰は1等三角点のある 奥医王山(939m)で、頂上からは,砺波平野に広がる散居村、立山連峰、北アルプスの山々、霊峰白山日本海等の眺望の素晴らしい山です。

「歴史」
 719年に白山を開いた泰澄大師が登山し、薬草が多いことから唐の育王山にちなんで育王仙と名づけたのがはじめとされる。722年当時の元正天皇が大病にかかり、泰澄大師がこの山の薬草を献上したところ快癒された。帝は大いに喜ばれ、泰澄に神融法師の称号を賜わり、山には医王山と命名されたという。
 中世には白山・石動山と並んで北陸の修験道場の一大拠点として隆盛し、48寺・約3,000坊もあったと伝わる。医王山の伽藍諸坊は、文明13年(1481年)に瑞泉寺一向宗の門徒との戦いに敗れ、全山が焼き払われてしまったという
 藩政時代は医王石(戸室石)の産地だったため、前田家により一般人の立ち入りを禁止された山であった。1975年(昭和50年) 富山県内4番目の医王山県立自然公園として県立自然公園に指定。1996年(平成8年) キゴ山、白兀山などとともに医王山県立自然公園の一部として石川県内5番目の県立自然公園に指定。
 明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈によって、修験道に基づく医王権現は廃された。国見平に医王権現堂が残る。全国の医王権現社の多くは、少彦名命を祭神とする神道の医王神社、医王山神社となっている。以上、Wikipedia参照
 
志功ゆかりの地 福光 
 準備中
坂本焼
 文久元年(1861)福光村の素封家中村屋清右衛門の後援を受け日蓮宗星場山法雲寺の東斜面で、福岡町出身の名工で富山藩主前田利保にも仕え、その折、藩主より一光の号をいただいたという土谷一光(後に、横荻一光と改姓)が窯を築いた。就業した期間は短く作品も少ないが、代表作として「黒釉井げた橘文香炉」がある。それには「坂本ほしば」「一光」の銘がある。所有者:成瀬達雄氏  
木津焼き(河北郡木津)
  藩主斉広の文化三年(1806)当時、藩内に磁器の生産がなく、肥前国を中心に諸国より毎年輸入した。その量は、能登・越中両国を含めた三州では三十数万枚に及び、公金流出防止と国内産業奨励のために、京都より陶工を招き藩内随所に御用窯を築かせた。藩主斉広の長男、加賀藩第12代藩主前田斉泰は越中国久珂郡広瀬村字阪本の星場山で陶業に従事していた土谷一光(横萩錦三郎)を招き、京都の陶工数名とともに、文久二年(1862)河北郡木津の地に御用窯を築かせ、皿・鉢・火鉢・行灯・皿等の雑器類を主に作らせた。作品は京都粟田焼と判別がつけ難い。 廃藩時に廃窯した。
日蓮大聖人NHKドラマに出演 
平成13年のNHKテレビ大河ドラマは、「北条時宗」でした。鎌倉時代、蒙古襲来のときの幕府執権が、北条時宗。この大河ドラマに、日蓮大聖人が準主役で登場します。演じるのは、奥田瑛二(50才)でしたが、NHKから石川教張先生(本佛寺第二十二世住職)に、大聖人について監修が依頼され、脚本の手直しや工夫をはじめ、大聖人の辻説法場面の撮影に丸一日立ち会われたそうです。
当時の『日蓮宗新聞』(第1693号10月10日発行)に、その内容が詳しく掲載されましたので全文をご紹介します。

NHK大河ドラマ「北条時宗」・怒涛の時代 日蓮聖人が登場
 21世紀の幕開け・2001年のNHKドラマ「北条時宗」に日蓮聖人が登場する。日本史上最大の国難といわれる鎌倉時代の蒙古来襲に立ち向かう時宗を主人公にしているが、時宗の父・時頼(前執権・最明寺入道)に自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(外国の侵略)を予告した「立正安国論」を呈上した日蓮聖人は怒涛の時代そのままの生涯を送られた。
 平成14年に迎える立教開宗750年その前年に放映される大河ドラマの中の日蓮聖人は檀信徒にどのような心象を与えるだろうか。未信徒に与える影響も大きい。ドラマの日蓮聖人は石川教張師(東京都杉並区本佛寺住職)の『人間日蓮』(学陽書房)に基づいて人物設定され、石川師がアドバイスもしている。

人物設定 石川教張師の『人間日蓮』をもとに 
日蓮聖人役を演ずるのは、性格俳優として演技力が高く評価されている奥田瑛二さん。
 石川師は奥田さんから「日蓮聖人のことを良く知った上で、日蓮聖人を演じたい」と日蓮聖人像についてアドバイスを乞われた。
「日蓮聖人は庶民の立場から、悩み、苦しむ人を救う慈悲の心を持っていました。弱い人、貧者のために尽くし、そこに日蓮聖人の誓願があり、お釈迦さまが説かれた法華経を心の拠り所としていました。“慈悲と誓願” “強さと優しさ”を持った日蓮聖人ですのでそれを演じて欲しいと伝えた」という。
「立教開宗750年」の前年 聖人の教えを広く正しく
石川師は8月下旬、岩手県江刺市で日蓮聖人が辻説法を行うシーンの撮影現場にも訪れ、当時の時代状況を考慮した立ち振舞いを奥田さんにアドバイスした。テレビで日蓮聖人が登場するのは第三話(平成13年1月21日予定)から。石川師は「脚本も面白いし、内容もよくできている。セットも素晴らしかった」という。石川師が大河ドラマのチーフプロデューサーから日蓮聖人の役について『人間日蓮』を参考にしたい、と言われたのは今年3月。平成14年(2002)は立教開宗750年にあたり、日蓮宗としては「グットタイミング」。「日蓮聖人の教えを世の中に広く、正しく伝える趣旨で大河ドラマが生かされれば結構なこと」と石川師は期待をこめ話している。
         
 石川教張薯 日蓮 奥田瑛二  北条時宗 和泉元彌   北条時頼 渡辺謙 時宗正室 西田ひかる 
大河ドラマ「北条正宗」動画が観れます。 
私の好きな「海の幸カレー」
準備中
仏の世界を表した茶道 
  一日の始まる朝に、食事の前後に、仕事や勉強の休息に、お客のもてなしにと、お茶を飲む習慣は、私たちの生活と深い関わりがあります。こした喫茶の習慣は仏教とともに中国から日本に伝わったものです。日本で、お茶が最初に飲まれたのは天平元年(792年)4月、大般若会で聖武天皇が招いた100人の僧に茶を賜ったのが最初とする記録が残っています。この時は、中国風の団茶(たんちゃ)と称するお茶が使われました。
 その後、本格的に日本でお茶が飲まれるようになったのは、臨斉禅を伝えた栄西(えいさい)が、中国の宋(そう)から帰国の際に茶の苗木を持ち帰ったことに始まります。栄西は、日本に喫茶の文化を持ち帰り、その著「喫茶養生記」に、茶の効能、製法、服用法を説き、茶祖と呼ばれました。
 栄西は初め抹茶を禅僧が修行する際の眠気覚ましとして取り入れたが、後に嗜好用、儀礼用としても流行、武家社会にも影響を与えました。庶民の人々に広まったのは室町時代以降のことで、最初は屋台の立ち飲みスタイルから始まり、家庭でも飲まれるようになったのは江戸時代に入ってからです。
 茶が大衆化する一方で、室町・桃山時代には陶器や漆器の発達に伴い、禅を主体とする侘数寄の茶道が誕生した。還俗した僧侶で、茶の湯の祖と言われる村田珠光(1422〜1502年)に始まった茶道は、千利休 (1521〜1591年によって大成されるが、その和敬静寂の心が、清浄無垢の仏世界を体現しているのは仏教の精神が生きているからです。
 仏教の精神が生きる「和敬静寂の心」とは「和」お互いに心を開き、和を保つ。「敬」お互いを敬い合う仏教的精神。「清」心身ともに汚れなく清らかであること。「寂」静寂な心を持ち続けること。寂滅は仏教の究極の目標。仏教学者松涛弘道薯「仏教」より

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