日蓮宗の宗紋 星場山   法 雲 寺  
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星場山法雲寺とは
壇家15軒の日蓮宗寺院です。平成二十年十月四日に堂宇大改修事業園成、入寺式を盛大に挙行し世間をお騒がしました。
  宗派 日蓮宗  平成22年3月撮影
法雲寺より福光方面を望む 
  総本山 身延山久遠寺
  開山 元和元年(1615)
  山号 星場山
  寺号 法雲寺
  通称 坂本のお寺
  住職 岩村皐義
  所在地 富山県南砺市坂本521
 TEL・FAX  0763-52-1861
 交通案内
 

本 堂
 
 坂本 法雲寺

鐘 楼
 客 殿



縁 起  
元和元年(1615) 当山「法雲寺」は能登の国羽咋郡柴垣村「本成寺」第八世妙行院日恵(にちけい)上人が開山された本成寺の末寺でした。柴垣本成寺は本山滝谷「妙成寺」の筆頭末寺のため、法雲寺は本山滝谷妙成寺の孫末寺になる。以来、法雲寺は無檀家の為、明治初年には寺門護持が立たなくなりました。
明治十年(1877) 一方、当時坂本村の成瀬一門は石川県の日蓮宗寺院の檀家であったが、道程四里余
りは険峻の山路であり交通の便は無く、菩提寺参拝の往復は実に大変なものでした。そこで、成瀬一門は当山現筆頭総代成瀬達雄家四代前の出身で、当時、東京府下本所区大平町・安楽山本佛寺住職であった善真院日甄(にちけん)上人に坂本の地に新たに一ケ寺を建立し、朝夕妙法護持の願いを申し出た。日甄上人この懇請を受け故郷の縁もありこの願いを快諾され、本佛寺を後進にゆだねて帰村された。本佛寺退陰に際し身延山久遠寺第七十三世新井日薩猊下(あらいにっさつ)より善真院なる院号をたまわる。
明治十一年(1878) 日甄上人は坂本村に新しく寺院建立の許可を得て、明治十一年十月二十九日、法雲寺の寺号を譲り受け当地坂本に移転・再興、日甄上人自ら第二十世の法灯を継承された。当山当初は坂本村中央地に建立されたが、飲料水が粗悪のため明治十二年に現在地坂本村西方の医王山山系の山麓に転地し現在に至る。
明治十二年(1879) 七月十二日、身延山第七十四世・吉川日鑑(にちかん)猊下(げいか)の北国巡錫(じゅんしゃく)を仰ぎ、開堂・入佛供養の大法要が執行され、今日の星場山法雲寺の礎となった。
明治〜大正  第二十二世日光上人代には、日甄上人寺跡移転堂宇新築の功を讃え、滝谷妙成寺五十二世日道上人より永代紫金襴跡(しきんらんせき)の本尊を授与された。以後、坂本地内において、明治・大正と稲作によって主に生計を立てる村人が害虫に悩まされるを見ては虫堂を建立し、御題目の祈祷札を勧請し豊作祈願の虫送りを毎年行い、さらに朝夕坂本村の西方高台より四方に鐘音の余韻を響かせる等、日甄上人以来歴代の諸先師、当地において法華経・御題目の布教に尽力された。 
昭和〜平成  第二十七世慈清院日要(じしょういんにちよう)上人日蓮宗大荒行第参行を成満され、修法をもって御題目布教に尽力されると共に、老巧化した堂宇を復興し、昭和五十一年には離座敷の増築、更には屋根瓦総取換えを完工された。以来三十年、時代の変遷と共に壇信徒の数は転地等により減少の一途であり、老朽化した堂宇維持管理に必要な経済的目処は立ち難く、一旦は廃寺を覚悟した。平成二十年日連宗有縁の諸上人、檀信徒から多くの浄財の寄付を得て堂宇大改修事業を圓成し、高岡大法寺において修行中であった岩村皐義が法雲寺第二十八世(代務)・久々湊法泉寺住職慈泉院日貫上人より法雲寺第二十九世の法灯継承する事となり、平成二十年九月、日蓮宗宗務総長猊下より法雲寺住職の辞令を拝受し、平成二十年十月四日入寺奉告、法雲寺第二十九世の法灯を継承し現在に至る。        

坂本・法雲寺 歴代住職                         
 第二十世
 成瀬日甄上人 坂本法雲寺初代   
身延山第七十四世吉川日鑑上人直書「星場山」を
井波彫刻師に彫らせた山号額

成瀬達雄氏奉納
 第二十一世  信明日開上人  
 第二十二世  小泉日光上人  
 第二十三世  吉野瑞雲上人  
 第二十四世  中條良栄上人  
 第二十五世  成瀬良雲上人  
 第二十六世  高野春栄上人  
 第二十七世  高野瑞栄上人  
 第二十八世  高野照教上人  (代務)
 第二十九世  岩村皐義上人 平成二十年十月四日
法灯継承
成瀬俊夫氏収蔵三幅 
     
成瀬日甄上人筆 
 
本サイト作成に当たり「十五夜」提供の素材を使用させて頂きました。  
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