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写真左3枚はルンビニ園、4~5枚目はサルナートのムラガンダクティー寺院内の壁画などです。 |
1)部族の王子として誕生
仏教の歴史は古く、約2,500年程前に釈迦の誕生により始まります。釈迦とは彼の部族の名で、本命ははゴータマ。シッタルダと云います。釈迦は現在のインド国境に近いネパール領ルンビニーで、北インド地方を治めていた釈迦族の王家の家柄に生まれました。釈迦族とは、ヒマラヤ山脈の麓、現在のネパール国境付近のインド北部一帯で、城郭都市カピラバッツを中心にの農耕や牧畜を営んでいた種族です。父・シュッドーダナ(淨飯王)は釈迦族の政治的指導者、母・マーヤー(摩耶)も、隣国の名門の出身でした。
釈迦の正確な生存年は不明ですが、これは古代インドの歴史について書かれた資料に正確な記述がないからです。そのため、生存年については諸説があり、現在の日本では、インド哲学者で仏教学者の中村元氏による紀元前463年~383年とする説が主流となっています。
釈迦は、母が実家に出産のため里帰りをする途中、インド暦の第2の月の満月の日に、前述のルンビニーで生まれました。しかし、母は釈迦の誕生後、わずか7日目で亡くなってしまいます。伝説によると、この母は、釈迦を身籠もるとき、6本の牙がある白象に乗った釈迦が神の世界から降りてきて胎内に入る夢を見たということです。
また、母が、季節外れの花が咲くアショーカ樹に手を伸ばしたときに、釈迦は、母の右の脇の下から生まれ、生まれると直ぐに、7歩歩いて、右手で天、左手で地を指し、「天上天下唯我独尊」と宣言したというエピソードも残っています。
現在は、お釈迦様の誕生を表したレリーフが納められるマヤ堂、『仏陀の誕生地であるが故、ルンビニ村は租税を免じ生産物の8分の1を納めるものとされた』と明刻されたアショカ王柱、産湯の池が残されています。 |
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写真左から、菩提樹、蓮華のレリーフ、大菩提寺、日本寺、マハーボディの本尊(釈迦如来像) |
2)裕福でも精神的には満たされぬ半生
生後7日目で実母を亡くした釈迦は、母の妹にあたるマハープラジャーパティを養母に、北インド一帯を治めていた釈迦族の長の王子として、物質的に何不自由ない、たいへん恵まれた環境の中で育ちました。釈迦自身がこんなふうに語っています。「住むには3つの宮殿があり、一つは冬のため、一つは夏のため、一つは雨季のためのものであった。雨季の4ヶ月には、そこで女性に取り囲まれて享楽をほしいままにし、多くの召使いにかしずかれて贅の限りをつくしていた。」
学問や武芸にも優れ、あらゆる面で非凡な才能に恵まれていた王子は、容姿も端麗で、女性にも大変もてたようです。けれども、もの心がつく以前に実の母を亡くしたことが、王子の精神形成に大きく影響していたのでしょう。もともと繊細で、感受性豊かな王子にとっては、人が羨むような生活を送る中でも、精神的な満足を得られることはありませんでした。内省的で、瞑想を好む青年に成長した王子は、16歳で美しい従妹のヤショーダラと結婚、息子をもうけます。しかし、家庭生活にも満たされず、息子の誕生に際し、「出家のための妨げができた」とつぶやいたという逸話が残っています。そして息子は、”妨げ””障害”という意味を持つラーフラ(羅睺羅)と命名されたとのことです。
王子は、しばしば城外に出か来ることが多くなりました。そこで王子が見たものは病める人、年老いた人、貧しい人々でした。この辺りの話は本行集経に書いてあるようですが、「四門出遊」と呼ばれています。つまり、若きゴーダマ・シッタルが東西南北の4っの門から出た時に、老人・病人・死者・出家者を見た。という話になっています。彼は、何故このような不幸な人々が多いのか悩み閻浮樹の下で瞑想しました。
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写真左からアショカ王柱、ストゥーパ、ダメーク塔、ダメーク塔の彫刻、遺跡公園内の遺跡、迎仏塔 |
3)真実の道を求めて出家
釈迦族の王子として何不自由ない生活を送る中でも、王子の心は決して満たされませんでした。虚偽の生活の中で、自分をごまかし続けることに耐えられなくなった王子は、とうとう29歳のある夜、地位や名誉、妻子や富など、総てを捨てる決心をして、ひそかに宮殿を抜け出しました。ただ一人、名も無い孤独な求道者として、真実の道を求めて出家したのです。
放浪の旅の途中、王子は隣国の強国で、当時の文化の中心地であったマガダで、アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマブッタという二人の仙人に師事しました。最初の師のもとでは「無所有処」という「何事にも執着しない」境地を、次の師からは「非想非非想処」という「心の中で何も思わず、また想っていないわけでもない」という境地を、精神統一によって得る修行を積みました。けれども王子は、これらの境地からは、悟りややすらぎを得ることは出来ない限界を感じて、師のもとを離れます。
以後は、特定の師にはつかずに、一人孤独の中で自分の肉体を極限まで虐め抜く苦行に身を投じます。けれども、そうした修行の中では苦痛のみ増す一方で、真実の道に到達することは叶いませんでした。ある日、心身ともに疲労困憊した王子が、痩せ衰えた身体をガンジス川の支流のネーランジャラー川で浄め畔の村で休んでいると、村娘から牛乳粥を与えられました。ようやく落ちついた王子は、近くのブッタガヤーの地に移り、菩提樹の木の下に座して瞑想に入りました。そして、ついにそこで悟りを開くことができたのです。こうして王子は、35歳で釈迦(ブッタ)となりました。
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写真左からマガダ王国の首都跡、霊鷲山、竹林精舎跡、同じく竹林精舎、祇園精舎・舎衛城の遺跡 |
4)伝道の旅
釈迦が到達した悟りとは、どのようなものだったのでしょう。病や死を始めとする恐怖や不安が消え失せ、心はどこまでも静かで落ち着いている・・・そうした境地が、悟りの世界ではないかと釈迦は考えました。凡人にとっては、あくまで想像の域を出ない心境でしょう。それゆえに釈迦も、当初は自分の悟りについて一般の人々に伝えることを迷いました。釈迦の悟りは、とても深く難解で、また微妙なものでしたから、自分で得たものを言葉で表現して、人々に伝えることができるなどと、到底思えなかったからです。
けれども、悟りを自分だけのものとして、いつまでも抱えていても、他の人々は一向に救われないということも釈迦は気づいていました。そうした折、瞑想中の釈迦のところに、古代インドのバラモン教の最高神梵天(ブラフマン)が、降りてきました。そして、釈迦が悟りの教えを説くことによって、それを理解し、苦しみや不安を取り除くことがでこるようになる人々がいるはずだと、強く説得しました。こうして梵天に背中を押された釈迦は、ようやく人々に伝道することを決心します。
そしてまず最初に、ブッダガヤーからおよそ200キロ離れたサールナートに赴いて、修行時代に、同じ師のもとに仕えていたかっての仲間である5人の出家修行者に説法をしました。これが初転法輪と呼ばれるもので、内容は四諦八正道についての教えでした。5人の求道者は、直ちに釈迦に弟子入りをし、彼らもまた悟りを開くことができました。彼らのような出家の弟子を比丘と呼び、ここに始めて仏教の教団ができたのです。 |
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写真左からガンジス川、沐浴風景、祇園精舎跡、現在のヴァーラーナシー、古くかR織物が盛んである |
5)説法で弟子と改宗者が増え大教団に
初転法輪を終えた5人の弟子たちは、それぞれ教えを広める旅にでました。釈迦は、商業都市ヴァーラーナシーに向かい、そこで説法を続けている中で、ヤサという資産家の息子と出会いました。享楽的な生活にふけっていたヤサは、そうした生活に嫌気がさし、家出をしていたところでした。ヤサは釈迦の教えを受け、弟子となって出家します。するとその両親も釈迦の教えに帰依、最初の在家信者となりました。帰依とは、神仏を信じ心の拠り所とすることです。
このサヤ親子の帰依に影響を受け、周辺一帯の商人階級に仏教の在家信者が増えていきました。経済的に豊かな在家信者たちは、財政的に仏教集団をバックアップ、教団の拡大に大きな役割を果たしました。こうして、釈迦は教団の維持と発展の基礎を作り、弟子たちを次々と世に送り出していきました。その結果、教団は北インド一帯に勢力を広めていきました。
新たな信者の中には、バラモン教の出家修行者からの改宗者も多くいました。中でもよく知られているのは、カッサパという3人の兄弟です。彼らは1千人もの弟子を抱えていましたが、釈迦と出合って仏教に改宗、帰依したことから、彼らの弟子たちもそれに従いました。
さらには釈迦の名声を聞いたマダカ国のビンビサーラ王も仏教に帰依、ラージャガバに竹林精舎を寄進するなどしました。また、同じ頃、後に釈迦の十大弟子のうちでも双璧となるサーリブッタとモツガラーナも、かっての師の許を去って、250人の修行者とともに、仏教集団に入団しました。 |
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写真左から現在のクシナーラ郊外の街道、釈迦の遺骨が安置されている塚、涅槃堂、涅槃堂と沙羅双樹、涅槃堂に安置されている涅槃像 |
6)釈迦の最期
釈迦の晩年は、「大般涅槃経」という経典に詳しく述べられています。この経典は、釈迦が80歳になった入滅の年に、ラージャガハの霊鷲山にいたところから説きはじめられています。よれによると、釈迦は、ヴェーサーリの町を托鉢して去る際、この丘に登り、弟子のアーナンダに、この町を眺めるのも、これが最後に成るかも知れないと告げました。
釈迦には最期を予感するものがあったのでしょうか。ハーヴェ村で、チュンダという鍛冶工の供した食事で、ひどい食中毒にかかり、倒れてしまいました。けれど病床の釈迦はチュンダが批判されないようにと彼の供養の功徳を称える気遣いをみせたということです。釈迦は病をおして次の説法場所であるクシナーラの村まで行きますが、とうとうサーラ樹の下に横たわると、動けなくなってしまいました。
けれど瀕死の床でも、説法を望む修行者には丁寧に教えを説き続けていきました。そして、いよいよ死は避けれないとなった時、嘆き悲しむアーナンダを枕元に呼びこう語りました。「悲しむな。泣いてはならぬ。私はいつも教えていたではないか。すべての愛する者といつしか別れねばならないことを。うまれた者は滅びることがあることを。私の肉体はここに滅びても、私の教えは永遠に生きている」そして、自らの死後も、これまでの教えを頼りに、修行に励むようにと言い残して、目を閉じました。
火葬された遺骨は弟子たちによって8つに分けられました。マカダ王や釈迦族がそれぞれ遺骨を持ち帰り、塔を立てて供養しました。これにより、仏舎利(釈迦の遺骨)に対する信仰が始まりました。
釈迦最期の教え
・私の肉体は滅びても、私の教えは永遠に生きている。・私の肉体は見るものでは無く、私の教えを知る者こそ私を見るのである。・私の説き遺した教えと戒めが汝の師である。
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参考資料:松濤弘道著書「仏教」・freett.com/釈迦・インド旅行記
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