日蓮宗の宗紋 星場山   法 雲 寺  
 
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 おわら幻想
前夜祭
九月一日 (初 日)
 
         
 九月二日 (二日目)
九月三日 (最終日) 
 おわら風の盆の来歴
 おわら風の盆の幕開け
二百十日の初秋の風が吹くころ、おわら風の盆の幕開けを迎えます。毎年9月1日から3日にかけて行われるこのおわら風の盆は、今も昔も多くの人々を魅了します。涼しげな揃いの浴衣に、編笠の間から少し顔を覗かせたその姿は、実に幻想的であり優美で、山々が赤くもえる夕暮れを過ぎると、家並みに沿って並ぶぼんぼりに淡い灯がともります。
それぞれの町の伝統と個性を、いかんなく披露しながら唄い踊り、その町流しの後ろには、哀愁漂う音色に魅せられた人々が1人、また1人と自然につらなり、闇に橙色の灯が浮かび上がり、誰もがおわらに染まっていきます。
 
おわらの歴史は、元禄ごろから
おわらがいつ始まったのか、明瞭な文献が残っていないためはっきりしません。
「越中婦負郡志」によるおわら節の起源として、元禄15年(1702)3月、加賀藩から下された「町建御墨付」を八尾の町衆が、町の開祖米屋少兵衛家所有から取り戻した祝いに、三日三晩歌舞音曲無礼講の賑わいで町を練り歩いたのが始まりとされています。
どんな賑わいもおとがめなしと言うことで、春祭りの三日三晩は三味線、太鼓、尺八など鳴り物も賑々しく、俗謡、浄瑠璃などを唄いながら仮装して練り廻りました。これをきっかけに孟蘭盆会(旧暦7月15日)も歌舞音曲で練り廻るようになり、やがて二百十日の風の厄日に風神鎮魂を願う「風の盆」と称する祭りに変化し、9月1日から3日に行うようになったと言われます。

「おわら」とは
一説では、江戸時代文化の頃、芸達者な人々は、七五調の唄を新作し、唄の中に「おわらひ(大笑い)」という言葉を差しはさんで町内を練り廻ったのがいつしか「おわら」と唄うようになったというものや、豊年万作を祈念した「おおわら(大藁)」説、小原村の娘が唄い始めたからと言う「小原村説」などがあります。

風の盆の由来
二百十日の前後は、台風到来の時節。昔から収穫前の稲が風の被害に遭わないよう、豊作祈願が行われてきました。その祭りを「風の盆」というようです。また、富山の地元では休みのことを「ボン(盆日)」という習わしがあったと言われます。種まき盆、植え付け盆、雨降り盆などがあり、その「盆」に名前の由来があるのではないかとも言われています。

多くの人々に育てられて
大正期から昭和初期におわらが大きく変化を迎えます。大正ロマンと呼ばれるほど文化に自由な気風が溢れた時代、大正9年に誕生した「おわら節研究会」も影響を受け、おわらの改良(唄や踊り)を行いました。また、昭和4年に結成された「越中民謡おわら保存会」初代会長の川崎順二の文化サロンを中心とした働きで、各界の文人が次々と八尾に来訪しました。おわらに一流の文化意識を吹き込んだ文化人には、宗匠・高浜虚子、作家・長谷川伸もいたと言われています。
同年、東京三越での富山県物産展に於ける公演をを契機に、おわらの改良がなされ、画家の小杉放庵、舞踊の若柳吉三郎が創った「四季の踊り」は大人気となりました。このときのおわらが「女踊り」「男踊り」として継承され今日のおわら風の盆になりました。
その時代に生きた文芸人らの想いは今、歌碑となって町内のあちらこちらで息づいています。散歩がてら町の「おわら名歌碑」めぐりをして廻るのもおわらの楽しみの一つです。
新しい時代の息吹を吸収しながら生きるおわら風の盆は、これからも新しい変化を繰り返し、次の世代へと継承されていくことでしょう。また、そう願わずにはいられません。
おわら保存会
 
 

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